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2013年6月22日、富士山の世界文化遺産登録が決まったという知らせを受け、富士錦酒造の18代目となる私は、テレビから流れるニュースをとても感慨深く聞いていました。なぜなら、富士山やその文化を保護・保全しようとする動きと富士錦は、100年以上前から切っても切れない関係があったからです。

 明治7年(1874年)、桃の節句の日に富士錦酒造(当時は清 酒造場)の家に元気な四男が誕生しました。富士錦14代当主の弟となる男の子は、崟太郎(きんたろう)と名付けられ、勤勉だった彼は旧制中学を卒業した後、東京の大学へ進学。その後、新聞記者を経て、地元静岡4区から出馬し、衆議院議員となりました。
この清崟太郎議員が、国政におけるもっとも大きな仕事として残したのが、「富士国立公園」設立の建議(明治44年)でした。毎日富士山の麗姿を眺めながら育ち、実家の酒造りも富士山の絶大な恵みを受ける中、彼は日本を象徴する山に対する畏敬の念、感謝の気持ちを誰よりも強く持っていました。
また、富士山にまつわる文化や産業にも大きな価値を見出していました。その彼が、米国にはナショナルパーク制度があると聞き、それを日本版として設立すべく帝国議会に建議したのが富士国立公園の設立だったのです。

崟太郎はその実現に全力を注ぎましたが、残念ながら任期中に倒れ、大正10年に47歳で没しました。しかし彼の遺志は周囲に受け継がれ、昭和6年に国立公園法(現在の自然公園法)が制定。そして昭和11年、ついに富士山が「富士箱根国立公園」として最初の指定から数えて8番目に指定を受けたのでした。その為、戦後の高度成長時期にも富士山の文化や環境は保全され、現在に至った訳です。

―「憲政の神様」の言葉から―


その清崟太郎が国立公園化に奔走していた第二次大隈内閣発足時の大正3年(1914年)、尾崎行雄司法大臣を柚野の実家に招きました。おそらく富士山の価値を直接伝えたいという想いもあったのでしょう。
その滞在中、尾崎大臣は夕日を受けて錦色(にしきいろ)に輝く富士山に接して感銘を受け、崟太郎が国会議員として故郷に錦を飾ったことを重ねて、「富士に錦(にしき)なり」と発したそうです。

当時、清 酒造場が造るお酒には銘柄を示す名前はなかったのですが、敬愛する偉人の言葉をいただいて「富士錦」と命名しました。そんな誇るべき名前を背負ってから2014年でちょうど100周年を迎えます。

そのタイミングと富士山の世界文化遺産登録が近い時期に重なったのは、何かの運命を感じざるをえません。もしも崟太郎が存命だったとしたら、どれほど感激したことか…。

当時、電話も限られた人しか使えない時代で、何か決めようと思えば人と人が直接会うしかなく、手書きで書かれた資料からも、それら一つ一つから日本を良い国にしたいという熱い志が伝わってきます。尾崎行雄氏をはじめとする当時の先駆者たちは、本当に勤勉で精力的で、旺盛な行動力を持っていました。

そんな先人の魂や崟太郎のDNAを受け継ぎながら、富士錦は100年間親しまれ続けてきました。たとえば、昭和46年に戦後、全国に先駆けて純米酒を正式発売したことも、自分たちの手で道を切り開いていこうとする精神の表われだったと思います。もちろん、富士山の恵みを理解し、何かしら地域に還元・貢献していく姿勢にブレがなかったことも、私たちの誇りです。

 500年近い歴史を持つ京都のある老舗は「伝統は革新の連続である」という言葉を理念に掲げ、定番の商品でもつねに時代に合わせて細かい進化をくり返しているそうです。私もその言葉が大好きで、富士錦でもっとも定番のお酒と言える純米酒も、毎年毎年「よりおいしく、より飲みやすく」を追求して新たな試みをくり返しています。

そうして重ねてきたこれまでの100年。そしてこれからの100年も、その姿勢が変わることはありません。私の好きなもうひとつの言葉に「愚直(ぐちょく)」があります。酒造りは非常に手間のかかる仕事ですが、これからも愚直に、一切手を抜くことなく続けていきたいと思っています。日本人は、そうして生まれた本物をきちんと理解し、受け入れてくれる数少ない民族だからです。

2014年に迎えた「富士錦」100周年、私たちは現時点の集大成として記念酒を発売しました。名前は尾崎行雄氏の号である「咢堂(愕堂)」をいただきました。その名に恥じないように、私たちが今持っている全てを注ぎ、究極の酒に結実させたいと考えています。

それが先人たちへの感謝の気持ちを示す、私たちの決意表明でもあるのです。

富士錦酒造 十八代目蔵元 清信一
清 崟太郎(せい きんたろう)1874-1921

明治7年静岡県富士郡芝川町(現富士宮市)で出生。東京専門学校(現早大)を卒業後、「中央新聞」記者を経て、その後東京市長となる師、尾崎行雄氏の秘書となる。後に国会議員となり「富士国立公園の設立」を建議。成立を待たず、大正10年に47歳で没した。清水港の修築に貢献。趣味は狩猟で腕前も良かった。